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北海道出身アラフォーサラリーマンのブログ。Youtube・ビジネスハック・音楽・鉄道について

クレヨン「肌色」消失で考えたこと

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アラフォーおじさんの健太です。
 
小学生の時に使っていたクレヨン。
 
それが私の時代には普通にあった「はだ色」という言い方が無くなり、現在は「うすだいだい」となっていると先日Yahooニュースに出ていました。
 
 
クレヨンメーカーの方がいわく
 
「20年ほど前に、『多様な国籍の人が暮らす時代において、差別的だと感じる人もいる』との問題提起があり、業界全体で『はだ色』の名称は使わなくなりました」
 
とのこと。
 
言っていることはもっともなことですし、私自身「肌の色」によって人や民族的な優劣や評価・差別がされるのは勿論反対で、そんな世の中は早く完全に無くなってほしいと思っています。
 
でも、「肌色」を単純に「うすだいだい色」に呼ぶ風潮に対してなんとなく違和感があるんです。
 
今回はそのことを書いてみようかと思います。
 
 

敢えて「はだ色」を残すのが教育ではないか?

 
学校は教育現場です。
教育とは一体何なのでしょうか。
 
教育という言葉を調べてみると、
”教育(きょういく、英語: education)とは、対象の人間の心身を変化させることを目的とした活動である”
とのこと。
 
ちょっと漠然すぎるので
 
「義務教育」とすると、日本で行われる義務教育は学校教育法という法律の21条で「義務教育として行われる普通教育」として10項目の目標が定められていて、その目標達成のために行われるものとすると明確に決められている。
 
第1項には
”学校内外における社会的活動を促進し、自主、自律及び協同の精神、規範意識、公正な判断力並びに公共の精神に基づき主体的に社会の形成に参画し、その発展に寄与する態度を養うこと。”とあります。
 
 
ここでいう「公正な判断力」とはどうやって教育によって培っていくのでしょうか。
 
「判断」とは、広辞苑によると
 
”真偽・善悪・美醜などを考え定めること。ある物事について自分の考えをこうだときめること。また、その内容。判定。断定”と書いてあります。
 
真偽・善悪・美醜などを考え定める時に、我々は「A」と「B」等、なにかの事象と事象又は概念を比較して自分なりの考えを定めるケースが多い。
 
つまり、判断するにはその材料として、2つ以上の異なる要素が必要。
 
「公正な判断力」は様々な判断材料をもっていないと培われない。
 
教育現場では「公正な判断力」を養成する役割が与えられているのに、クレヨンの色をただ「うすだいだい」と言ってしまっては勿体ないと思います。
 
 
クレヨンの肌色の例でいえば、クレヨンに「肌色」という色の呼び方を敢えて残すメーカーがあっても良いのではないか?
 
残した上で
 
・「人種」によってそれぞれ肌の色は異なっている。
 
・今も肌の色による差別は残念ながら続いている。
 
・クレヨンの肌色はたまたま日本人に多い肌の色を「肌色」と呼んでいるのであって、それ以外の肌の色をした日本人もいる。
 
・それに日本には外国人の方もいっぱい住んでいる。
 
・だから、この色を「肌色」ではなく「うすだいだい色」にしているクレヨンもあるんだよ。
 
それを使う子供たちにそのように伝えてみる。
 
 
昨今のアメリカの黒人差別より発生したBLM運動(ブラック・ライブ・マスター運動)等人種を巡るトピックスを交えながら
 
・世界には人種差別があり、今も根強く残っていること
 
なぜ、人種で差別してはいけないか?
 
・人種差別の歴史
 
等を教えることが出来れば、単にクレヨンの色の呼び方が変わってきたという話題から
 
 
人種差別は良いことなのか? 悪いことなのか?
 
果たして自分は「肌色」と呼んでも良いのか?
 
「うすだいだい色」と呼ぶべきか?
 
別に、両方呼んでも良いのでは?
 
 
と自分達で判断を下せます。
 
 
つまり、公正な判断力を培うトレーニングになると思うんです。
 
もし時間の問題などがあって、としても、「うすだいだい色を昔は肌色って言ったんだよ。」と一言加えておけば、好奇心旺盛な子供です。
少なくても「なぜ、肌色と言ったの?」と質問してくる子もいるでしょう。
 
改めて時間を取れる時に、そのことを説明してあげればよいのです。
 
昔「肌色」。
今「うすだいだい色」に変わってきたという歴史的背景をもっているクレヨンの色。
 
それを、すべての製造メーカーが呼び方を統一したり、先生や親がそのまま呼んでも、なにも子供たちは学ぶことは出来ない。
 
それは、非常に勿体ないことだと考えています。
 
 

アルコールランプがカセットコンロに

 
同記事には理科の授業の際使ったアルコールランプも最近では、カセットコンロに変わり使わなくなってきているとのこと。
 
ランプで使われるメタノールは揮発性があり爆発の危険があることに加え、最近の子供はマッチを触ったことがなく火をつけられないことも要因であるらしい。
 
確かに、わたしはタバコを吸わないこともあってかマッチを使用したのはここ数年ありません。
 
これも時代の流れと言ってしまえばそれまでなのですが、何でも「危険だから」と子供達に体験させないのはいかがなものでしょうか。
 
ナイフで鉛筆を削る実習なんかも、最近はアルコールランプと一緒で、鉛筆を削るのは「危険」。そもそも鉛筆を「使わない」からと消えてしまったと聞いたことがあります。
 
ナイフで鉛筆を削ると、結構な確率で指を切ってしまう子供は出てくる。
 
自分の指から血が「タラーっ」と出てきて、小さなキズでも「ズキズキ」と痛む。
泣き出してしまう子もいるかも知れません。
 
でも、そういった「こんなちっぽけなキズでも結構痛んでしまう。」
 
そんな体験をすれば、「刃物」は慎重に扱わなければならないし、それをまして他人に向けてしまったら大変なことになることを子どもたちは自ら身に染みて解る。
 
もしかすると、鉛筆削りのナイフよりももっと鋭利で危険な包丁を器用に扱って日々料理をしてくれている親への敬意が生まれるかも知れない。
 
鉛筆を削る行為には、単に実用性を身につける以外にも人間にとって大切な感情を育む効果がある。
 
何でもかんでも、「危険!」「使わないから!」ということで子どもたちに体験させないのは、「なんか変な風潮だな~」と思ってしまった今日この頃なのでした。
 
 
 
今日も最後までお読みいただきまして有難うございました。
 
 
したっけねー!!