わたしの父、もう70歳をとうに過ぎてしまいましたが今も元気です。
いわゆる「団塊世代」ちょうど真ん中の人間です。
戦後の混乱・食糧難の時期に幼少期を過ごし満足に食べることが出来ない経験があったせいなのか、質素倹約を重んじて兎に角、しつけには厳しい人でした。
食べ物を残したり、贅沢することは許されなかった
とりわけ食べ物に関しては
・子供はお茶なんぞ大人のたしなむものを飲むのは早いと飲ませてもらえず。
・食べ終わった茶碗にご飯粒が1粒でも残っていたら激怒。
・肉なんて贅沢品、そんなものは自分が稼ぐことが出来るようになってから食べろ!
という人でした。
肉にかんしては、父自身が嫌いというのも理由ではあったのですが...。
(味だけではなく、獣肉特有の匂いが嫌いらしい)
わたしは今も「チビ」で幼少期からずっと「チビ」でした。
今でもコンプレックスがありますが、やっぱり「チビ」から脱却したい気持が常にあり、一世を風靡した(?)唯一の背を伸ばす方法が書かれた名著「川畑式身長法」の本に
「背を伸ばすためには良質なたんぱく質を多くとることが大切」と書いてあるのを見つけては母親に
「背を伸ばしたいので肉を食わせてほしい」とせがんだところ
母
「お父さんが嫌がるからダメ!」
「魚を焼いてあげるから、それで我慢しなさい。同じ肉なんだから...」
と軽くあしらわれ、
「自分がチビなのはお父さんのせいだ!」と結構思っていたりもしていましたね。
わたしはそうゆう環境で育てられたので
食べ物に関しては残したり、捨てたりすることはほぼありませんし、いわゆる「粗食」です。
一緒にご飯を食べた同僚や、昔デートした女性が食べ終わった後のお茶碗やどんぶりにご飯が残っていると、かなり興ざめしてしまっていました。
「ご飯を残す、残さない」行動が人間性にどのように影響しているかは分かりませんし、実際、ご飯を残すような人でも人の也や仕事に誠実で尊敬すべき方は多く観てきました。
なので、ご飯を残した人がいると興ざめしてしまう自分。
おそらく親父の教育によって形成された気質が自分自身の人生においてプラスの作用を及ぼしているのかマイナスなのかは不明です。
父の教育が与えた影響
でも、
父が言っていた
大人のたしなみであるお茶を子供が飲むな!
→「大人は大人、こどもはこどもの両者不可侵の世界がある」
「それを尊重しよう!」
肉なんて贅沢品、食べたければ自分が稼ぐようになったら食べろ!
→「我々子供を食べさせてくれている親という存在の有難さ」
「粗食でも食べ物にありつけることに感謝しよう!」
そんな考えをわたしに芽生えさせてくれた父の食に関する教育にはとても感謝していますね。
自身、アファーフォーおやじになって、歳をとればとるほど粗食がやっぱり口に合うと感じるようになってきました。
(といっても、若いとき豪華絢爛な食事をしていたわけではありませんが...。)
それに粗食は、身体にもいいとも言われていますし、
家計にも優しいですから。
そういった意味でも感謝感謝!
既知のように、日本のように食べ物に全く持って不自由していない国はそれほど多くなく、アジアやアフリカでは生きるために必要最低限の食事もとることが出来ない発展途上地域が数多くある。
にもかかわらず、そんな不平等な世界のなかで「たまたま」わたしはお金持ちではありませんが、食べていくために必要な収入を得ている両親から生まれました。
その結果、不自由することなく食べものを享受できました。
そのことに感謝できる気持ちが芽生えたのは間違いなく、親父の教育によるものです。
正直小さい時は、
「焼いたサンマより、肉食いてぇ。」
「背が伸びないのはあんたのせいだ!」
「食わせろこのやろー!」
と恨んだ時もありました。
でも、今は思います。
「おやじ、なんであんなに食に関して厳しかったの?」
「肉食いたい時もあったんだけど...」
「でも、ありがとう」と。