挨拶で土俵上にあがった舞鶴市長が体調を崩し倒れてしまった際
会場に居合わせていた女性看護師がとっさに救助にかけつけた時
「人名にかかわる非常事態にもかかわらず、不適切な発言があったことをお詫びしたいと」謝罪し最近大きなニュースになっていますよね。
わたしは、そのような発言をした行事が八角理事長が言っている通り、「緊急事態で気が動転して呼びかけたものであり」
当の行事が決して「人命」より「伝統」を重んじてそのような発言をしたのではないと思いますし、思わぬ騒動になってしまった行事に対しても、お気の毒な面もあると思います。
行事は想像力が欠如していた?
ただ、
とっさにでた発言だっとはいえ、発言した行事は2回「降りてください」と言っていたという報道もあります。
もしかすると、行事は「もし、伝統を守ることに固執し、救助に上がろうとした女性看護師の救助を拒んでしまったら」
起きうるであろう状況について想像できなかったとしたら、それは非常に問題ではないかと思います。
なにせ、人が突然倒れてしまったのです。
常人であれば、命の危険も考えられる異常事態です。
行事は、「降りてください」と発言する時に、日本の国技である大相撲という伝統を守り後世へ継承していく立場であるけれども、今回はそんなようなことも言ってはいられない。と思わなかったのでしょうか。
わたしがなぜそう思うのは、当の行事が2回「降りてください」との発言をしているからです。
1回めの発言は、八角理事長が言う通り、「気が動転して」言ってしまったのかもしれません。
でも、2回も発言したのが本当ならば、女性看護師の救助を拒んでしまった時に生じる自分の発言によって、「1人の人間の生命危機をそのまま見過ごしてしまうことになる。」
そして、その結果、「ひょっとするとその人が亡くなってしまう可能性もありえる。」
ということが、想像できなかった可能性もあります。
カフェでヘッドフォンは想像力不足の証拠?
わたしは、よくブログをカフェで書いています。
(今、このブログもそうです)
最近、カフェでやたら
・パソコンのキーボードの打鍵音が大きい人
・くしゃみをする音が大きい人
・スマホやマグカップをテーブルに置く音がやたらと大きい人
を目にします。
(たいてい、男性のサラリーマンおっさんが多いですね)
非常に耳障りでイライラしてしまい、「いい年して何だコノヤロー!」と思うのですが、
そうしている、おっさん連中の共通項目を発見しました!
耳にヘッドホンをしている人が多いんですよね。
人は、行動・動作をする度、常にそれを脳に戻す(フィードバック)して次の行動を決定していきます。
例えば
大抵の人は、予期せぬエレベーターの動き(止まっていること)にに足がついていかず、前のめりになり転んでしまいそうになります。
でも、2歩目、3歩目と足を運んでいくにつれて、身体は前のめりになることなく、通常の階段と同じように昇っていくことが出来ます。
なぜでしょうか?
それは、1歩目で転びそうになった時に、我々は無意識に脳に「これは通常のエレベーターの動きと違う」と情報をフィードバックして、2歩目は「階段を昇るように足を運んでいきなさい」と次の行動を修正しているのです。
だから、動いていないエスカレーターでも我々は転ばずに昇りきることが出来る。
カフェにいるおっさんがうるさい理由?
カフェでキーボードを叩いている人に例えると
①まず、キーボードを叩く
↓
②その音が自分の耳に伝わり、「ちょっと音が大きくて廻りの人に迷惑かな?」と感じる(と普通の人は思う)
↓
③次キーボードを叩く際は、小さな音になるよう力加減を調整して叩く
↓
④本人も、廻りのみんなもハッピー!
カフェで迷惑なおっさんは、ヘッドフォンで耳を塞いているから、②のフィードバック及び次の行動の修正ができていないのですね( ; ; )
だから、廻りが迷惑をしていることに、気付くこともなく涼しい顔で延々とデカイキーボード音を鳴らし続けているのですね。
(同様に、おっさんがするくしゃみも、まるで「ドリフのコントの加トちゃんか!!」とバカでかい…)
大相撲の行司を批判する時には、自分がカフェや図書館でヘッドフォンをしていないか?
周りに対する想像力が欠けていないか?
「アラフォ-おじさん」のわたしもふくめて、特にオッサン連中は一度顧みてはいかがでしょうか。
相撲行事問題をキッカケに思ってしまった今日このごろです。