Better Days!!

北海道出身アラフォーサラリーマンのブログ。Youtube・ビジネスハック・音楽・鉄道について

貯金できる人になるには?

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”1000円の使い方でわかる、貯金ができる人、できない人”という記事がありました。
わたしは、お酒がなによりも大好きです!!
 
「1,000円」ときくと、1000円札一枚で呑むこと。いわゆる「べろ呑み」をすぐ連想してしまいます。
 
「べろ呑み」も1000円以内という限られた予算の中で、数あるメニューの中から効率的に酔っぱらいかつ、お腹も満たすことが出来るつまみとお酒を吟味・選択していくという大人な知的ゲーム(?)です。
 
日々知的なゲームに没頭しているわたくしなので、
「1000円の使い方で、貯金できる人、そうではない人が判別できる」という記事が目に留まったんです!
 
 

1000円を使うことに真剣さがない人は「お金のたまらない人」

 
記事では、目の前にある1000円で
”何かを買ったとします。その理由やその時の気持ちについて考えてみましょう。
「何となく」「購入できたから」というような、目的のないお金の使い方をしているなら、それはお金が貯まらない人。お金の使い方に自分なりのこだわりや目標がないので、特に目的もなくお金を使ってしまうわけです。
一方で、「1000円とはいえ、有効に使いたい」と考え、スキルを身につけるために書籍を買ったり、家族が喜びそうなプレゼントは何かと頭をひねって購入したり、意味のあるものや喜ばれるものにお金を使おうと考える人は、お金が貯まる人といえます。”
 
つまり、1000円を使う際、1000円で何かを買うことによって生じる効能・効果を真剣に考えてから使う人ではない場合、ただ何となく目的もなくお金を「単に使っている」=「浪費」しているだけ。
 
そんな人は、お金がたまらないということですね。
 
確かに考えてみると、お金持ちの人は、総じて「倹約家」のタイプが多いと聞きます。
 
そんな倹約家、簡単に言ってしまえば「ケチ」な人でも、お金持ちの人はお金を使うことが「生きた金」すなわち「意味があると思うお金の使い方」と考えた場合は、惜しみなく使う。
逆に、「死に金」=「意味がないと思うお金の使い方」の場合は使わないか、使ったとしても極力少額にとどめる。
 
常にそれは「生きた金か」「死んだ金」という判断の元お金を使っている。
 
「生きた金は、まさしく生き物なのでほかのお金を呼び込む作用があり、ますますお金が集まってくる」
 
お金持ちは「死に金」を使わないのでお金が溜まるだけではなく、生きた金の作用で、ますますお金が集まりさらに裕福になる。
 
そのように聞いたことがあります。
 
そういえば名経営者といわれ資産を築いた人でも、驚くほど身なりが質素な人が多いですよね。
身なりだけではなく、食生活においてもいわゆる「粗食」を好んでいる方が多いようです。
 
身なり・食生活が質素ということは、勿論それが浪費にあたるか非かは人それぞれの価値判断によりますが、ファッション・食という「浪費」に多くのお金を使っていない証拠です。
 
日本であれば、松下電器産業創業者の松下幸之助さんや、京セラの稲森和夫さん。
海外であれば、経営者というカテゴリーではありませんが、世界5本の指に入る投資家のウォーレン・バフェットさんしかり。
 
意味のあるお金の使い方か、それともそうではないか
考えながらお金を使うことは、お金がたまる秘訣であることは間違いないようですね。
 
 

お金がたまる人は、行動に目的意識を持っている人

 
記事では、「お金を貯めるための5つの力」として
 

1. ぶれない力

何にお金を使う、使わないかをはっきりさせ、無駄な出費を抑える。
 
2. 把握する力
自分の収入と支出をきちんと把握して、お金の流れを見える化させる。
そうすることが無駄な支出を抑えることに繋がっていく。
 
3. 計画する力
「いつまでにどれくらいお金が必要か」見通しを立てたり、お金の使い方の優先順位を決め、お金の使い方にメリハリをつける。
 
4. 工夫する力
より安い料金プランをみつけるような情報収集力を磨き、選択することで無駄な出費を抑えたり現在の支出を減らす。
 
5. 継続する力
無理なく実行できて自分にあっているお金のやりくり方を見つけ、継続する。
 
といったことが紹介されていました。
 
先日、充実した人生を歩んでいくためには、「自分の好きなことをやる」ということを書きました。
自分の好きなことや幸せに感じることを主体的に「見つけて」「日々」実行していく。
そうすることが人生を充実させる。
 
お金のやりくりも全く同じですよね。
 
好きなことや幸せに感じることに、優先的にお金を使う
そうすることで、それ以外のことに使うお金の量を減らしていく。
 
結局のところ。
 
お金を貯めることが出来る人は、お金を使うという行動に「目的意識」を持った人なのですね。
 
 
お金を有効に使いつつ、貯めることが出来る人は、充実した人生を歩んでいる日人でもあると言えそうですね!!
 
自分な好きなこと、幸せに感じることにお金を使う。
それ以外のことには使わないか少額にとどめる。
 
そんなお金の使い方をする。
 
 
それは、同時に充実した人生を歩んでいるということでもあるのです。
 

充実した人生を送るには「自分のやりたいことをやる!」

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先日、

幸福な人生を送り健康と生産性を向上させる、7つのささやかな習慣として

 

1. もっと利己的になる

2. 「感謝の日記」をつける

3. 最低30分間エクササイズする

4. 朝と夜の儀式を作る

5. 翌日必ず成し遂げることを3つ考える

6. 1日1回は有意義な会話をする

7. 大好きな趣味に最低30分間充てる

 

ということが紹介されていました。

www.lifehacker.jp

 

 

7つの項目を分類してみましょう。

 

2の「感謝の日記」をつける以外の6つの項目

 

どれも人生において「自分の時間を一定時間確保して「自分のやりたいことをやり続けよう!」ということになるかと思います。

 

確かに、自己啓発の名著中の名著といわれる

スティーブン・R・コヴィー博士による「7つの習慣」で唱えられている

充実した人生を送るために必要な7つの習慣のうち

 

第一の習慣「主体的である」ということと同じことですよね。

 

一時、非常にブームになった感がある「アドラー心理学」でも、

 

5つの基本前提(5Basic Assumptions)のうち

 

”個人の主体性(Creativity)

アドラー心理学では、個人をそれ以上分割できない存在であると考えることから、全体としての個人が、心身を使って、目的に向かって、行動している、ととらえる。アドラー心理学では、個人の創造力、創造性を評価していて、それが個人の変化、変容を可能にする根拠となっているので、主体性というより創造性の方が適切である。”

アドラー心理学 - Wikipedia

 

正直なところ、読んでも良く分からないのですが...。

 

 

簡単にいうと

「あくまでも個人である自分自身が考えて行動した結果が人生である」ということになるのだと思います。

 

だから、7つの習慣の第一の習慣「主体的である」とアドラー心理学の「個人の主体性」は同じことと考えてよいかと思います。

 

つまり、スティーブン・R・コヴィー さんもアドラーさんも同じことを言っている。

 

だとすれば、

 

どんな時であれ「自分の時間を一定時間確保して「自分のやりたいことを主体的にやる!」

 

というのは充実した人生を送っていく為には必須のことであると言えるでしょう!

 

 

人生で後悔していることの第一位は?
 

人生で後悔していること、、、7割の老人が同じ回答結果に驚愕という記事がありました。

29.人生で後悔していること、、、7割の老人が同じ回答結果に驚愕 | ノウハウツリー

 

第1位はなんだったと思いますか。

 

 

それは、7割の老人が同じ回答をした

「チャレンジしなかったこと」ことなのだそうです。

 

「チャレンジ」と聞くと、どうしても「困難な目標やゴールに向かって努力すること」と考えがちです。

 

でも、「自分がしたいと思っていることをする」というのも立派なチャレンジまさしく「挑戦」ですよね。

 

 

 

自分はアラフォーになって時々

 

・自分が急に病気になったりしてあと半年、3か月しか生きることが出来ないと宣言された場合

 

・不慮の事故に遭遇して生死の境をさまよって意識がもうろうとしているとき

 

 

「自分の人生に悔いがないか?」

 

「人生を後悔していないか?」

 

そう自分に問うたら、どうだろうかと考えることが多々ありますね。

 

 

「自分のしたいことをやる!」

「チャレンジする!!」

 

毎日微々たることでもどんなことでも良いから日々挑戦する。

 

 

その行動を積み重ねていくことが、充実した人生を送っていくということなのだ!!

 

 

 

わたしの好きな

インドのガンジーさんの言葉

 

 

「明日、死ぬように生きなさい。永遠に生きるように学びなさい」

 

をモットーに日々の生活をしていきたく、あらためて決意した今日なのでした。

 

元々性的マイノリティーに寛容だった国日本、もっとLGBTの方々に優しい国になるべき

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先日、お茶の水女子大が、 トランスジェンダー学生の受け入れを発表しました。お茶の水大に続いて受け入れを検討している大学も10校程度あるとのことで話題になっていますよね。
 
お茶の水女子大学の場合、戸籍上性別が
男性でも本人が申告して「心が女性」ならその学生を受け入れるという方針です。
 
その方針には少なからず、反対の意見もあるようですが、いわゆる「LGBT」の人々に寛容な社会に日本が向かっていくことはわたしは賛成ですし、そうすべきであると思っています。
 
 

精神的愛情関係の場合、3択は全然OKなのだけれども

 
だって
 
異性だけではなく同性を好きになることは普通の感情です。
 
相手の考え方・振る舞い方、相手があなたに注いでいる愛情、それに見た目等
様々な要素によって
いわゆる「恋愛感情」まで生まれることはそれほど多くないにせよ、人として異性のみならず同性を愛してしまうことは人間として当たり前のことですよね。
 
そのうちの一定数が相手に「恋愛感情」を持つにいたって、そのまた「恋愛感情」を持った一定数が、性的な対象までを含んで相手を愛してしまうことは何ら不思議なことではないように思います。
 
それを、なぜか性的関係をもつまで至るような愛情の場合、急に同性での関係は排除され「男は女と」「女は男と」の2択になってしまう。 
 
「男性を好きになることもあれば、女性を好きになることもある。又はその逆」等のパターンを含めれば、もっとバリエーションあるはずなのに、性的関係をもった間柄は2つにパターンに区別することに元々無理があるのですね。
 

 

性的な関係は異性間でのみあるべきという考えはキリスト教の影響?

 
それに、性的な関係をもった間柄は異性であるべきというのは、日本に昔からあった考え方ではないのです。
 
日本固有の社会通念や規範ではなく、江戸時代後期から始まる欧米文化の流入やその後開国によって、キリスト教の教義が持ち込まれ、「性的な関係はあくまでも異性によってのみあるべき」という考えが広まったらしいのです。
 
知っている方も多いと思いますが、江戸時代、庶民の憩いの場でもあった銭湯で混浴は当たりまえでした。
 
将軍家など支配階級だけではなく、宗教者、一般市民でもゲイのカップルは普通にいたようです。
 
西洋文明が入ってくる前の日本は、大人の関係を結んだりすることや恋人・夫婦のユニットは「男性」と「女性」が対になってなされることとは必ずしもなっていなかったのですね。
 
文明開化の時代
 
西洋の文化・文明が入ってきて、情事を重ねたり、恋人・夫婦のつがいは「男性」と「女性」でと強く定義づけがされました。
 
西洋文化に大きな影響を与えているキリスト教では
 
” 影響を受けた欧米諸国では伝統的に、同性愛は聖書において指弾される性的逸脱であり、宗教上の罪(sin)としてきた。”
 
ゲイやレズピアンはキリスト教を信じるものにとって受け入れることが出来ない存在だったのです。

キリスト教と同性愛 - Wikipedia

 

一方の日本

 

仏教では、仏の道に入った方(出家者)は自らの欲望(性欲)を断つためにも性交や結婚したりすることは禁じられていることが多かったようです。

 

現在でも、一部の宗派を除けばお坊さんは結婚をせず独身でいる方が多いですよね。

 

でも、キリスト教のように「同性愛」が宗教上の罪であるというような考え方は無かったようです。

 

もう一つの日本を代表する宗教である神道の場合も

宗教的な立場、同性愛に関する記述(見解)は無いようですね。

 

 

日本にはLGBTを受け入れる伝統的蓄積がある

 

ところで、

日本人におけるLGBTを含む性的マイノリティーの方々の割合はどのくらいだと思いますか。

 

100人に1人ぐらいでしょうか。

それとも、2~3人で、3パーセント位?

 

 

答えは、パーセンテージでいうと8% 

 

13人に1人位の割合となり、ABの血液型や利き腕が左腕の方とほぼ同程度の割合なのだそうです。

 

皆さん。

想像していたよりかなり多いと思ったのではないでしょうか。

 

今まで

自分の性的マイノリティーを隠しながら生活していく息苦しさ・重圧。

 

学校や職場といった、どうしても多数派(マジョリティ)の意見を尊重して仕組が作られ、その枠をはみ出している人間(マイノリティー)を攻撃・排除しがちな社会に苦しめられてきたLGBTの人々。

 

 

日本人が過去持ち合わせていた、同性愛のようなLGBTの人々に対する寛容な態度。

 

現代に生きる我々もそのDNAは祖先より脈々と引き継いでいるはずですよね。

 

 

お茶の水女子大のトランスジェンダー受け入れのニュースを見て

 

もっともっと、LGBTをはじめとするマイノリティーの人々が生活・行動しやすい社会の仕組みがどんどんできれば良いなと思いました。

 

 

そうそう。

経済評論家で「カツマー」という社会現象を引き起こした勝間和代さん。

先日、恋人が女性であることを世間に発表しました。

katsumakazuyo.hatenablog.com

 

とっても、さわやかな告白でした。

勿論、文中にあるように発表することを決断されたまでにはご本人にしかわからない苦労や様々な葛藤があったとは思います。

 

でも、良い意味で、勝間さんの人柄がそうさせるのでしょうか。

なんというか、あっけらかんとしていて(失礼)すがすがしさを感じる発表でしたよね。

 

最近では、マツコ・デラックスさんをはじめとする「オネェタレント」が非常に人気で、オネェタレントを標榜される方々全てがLGBTであるのかどうかは別にしても、性的マイノリティーの人(又はそれを感じさせる人)に対しての社会の目の厳しさや垣根は確実に低くなってきているように思います。

 

今後ますます、勝間さんの発表のようにLGBTの人々が正々堂々と自分の性向を素直に公表し、社会がそれを特別のものとして扱わない世界が出来ることを願っている今日この頃でした。

 

他人の容姿については言わないこと。相手を傷つけている可能性が大いにありますよ。

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先日、北海道旭川市在住のパワーブロガーであるポジ熊さんの
見た目による差別「ルッキズム」についての記事を読んで
 
美醜の基準はあくまでも時代や社会背景によって変化するもので、絶対的な尺度ではないのだから、出来る限り「あまり気にしない方がよいのでは?」と書きました。
自分の美醜については、「気にしない方がよい」
 
だけれども、他人に対しての美醜の言及は避ける。特に「悪口」は極力言わない。
 
ということについて書きたいと思います。
 
 

高校のクラスメートの女性に深い傷を負わせてしまっていた

 
わたしは、今も非常に後悔していることがあります。
 
それは過去、美醜について自分が言及したことで女性の心に大きな傷を負わせてしまったからです。
 
その女性は高校のクラスメイトです。
 

笑いをとっているつもりで、彼女も一緒に笑っていたのだが...。

 
高校のクラスメイトの女性はいわゆる「いじられキャラ」の女性でした。
 
性格は非常に明るくて、気さく。
 
非常にチャーミングな子で、結構仲が良かったのですね。
 
その子は、高校生という年頃もあってか、顔にかなりのニキビがあったのです。
 
今思うとなんて愚かでデリカシーのかけらもないことをしてしまったのだろうと恥じているのですが、わたしはその子のニキビ顔をネタにいつも周囲から笑いをとっていたのです。
 
その時は、彼女もいっしょになって「ゲラゲラ」と笑っていたのです。
 
 
やがて、彼女は高校を卒業して就職しました。
わたしも大学へ進学してお互い顔を合わすことも無くなりました。
 
しばらく時が過ぎ、彼女のことも忘れていたころ。
 
たまたま、かわいがってもらっていた大学の先輩が彼女と同じ職場に就職、わたしと高校が一緒で、しかもクラスメートで仲も良かったとその先輩は知らされました。
 
ある時、その先輩とその子について話していた時
 
「〇〇は、自分のニキビ顔について高校生の時ずっと悩んでいたんだって。」
 
「『お前にニキビについていじられていた時、心がいつも締め付けられる思いだ
った』と言ってたぞ!」
 
と聞かされたのです。
 
馬鹿な自分。その時初めて気付きました。
 
「彼女、わざと笑っていただけだったんだ。」と
 
悩んでいたニキビ
 
それを、他のクラスメートの前でネタにされ笑われる。
 
さぞかし辛かったと思います。
 
自分が「ただ、人を笑わせるだけのために」ただ面白おかしく言っていたことを今は深く後悔・反省しています。
 
〇〇さん。本当にごめんなさい。
 
 

美醜について言われたことは心にグサッと突き刺さってくる

 
見た目や仕草について他人から論評されることは、どんなことであっても自分の印象に残ってしまう。
 
つまり心にグサッと言葉が突き刺さると思うんですよね。
 
それを言われた本人が、良い意味であると好意的に解釈した場合でも、又その逆でも。
 
ずっとその言葉が影のようにその後の人生に影響を及ぼしてしまうと言ったら大げさでしょうか。
 
良い意味と思った場合は、それはおそらく本人にとってずっと場合によっては生涯にわたって何らかの自信になると思いますし。
 
悪い意味と捉えた場合は、ずっとコンプレックスとして心の奥底に刻まれてしまう。
 
例えば
 
わたしは前歯がちょっと隙間が空いている、いわゆる「すきっ歯」なんです。
それに気づいてはいたのですが、そんなにひどくはないし大して気にも止めていませんでした。
 
でも、ある時職場の先輩からそのことをまじまじと指摘されたんです。
 
それからは、会話したり笑ったりして歯を見せるとき、どうしても気にしてしまうようになりました。
鏡に自分の顔を写すたびになんか自然と「溜息」が出るようになってしまいました。
 
他人に言われるまでは、気にもしていなかった「すきっ歯」。
 
今はかなり意識してしまい立派なわたしの新たなコンプレックスとなってしまったのです。
 
わたしは他人に言われたことを何事も深刻にとらえる方ではありません。
でも、そんな自分でもどうしても気になってしまう。
 
 
他人ついての美醜を不用意に語るべきではない。
 
特にそれが「悪い意味での場合」はなおさら。
 
 
自分のすきっ歯を鏡で確認する度に、そのことを考えてしまいます。

 

犬好きのわたし、飼い主の身勝手な論理について考えさせらた件

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わたしは犬が大好きです。
 
ワンコのもっている愛らしいルックス・表情の豊かさだけではなく、従順さ、素直さ、義理堅さ、人の気持ちを正確に理解する頭の良さ、等々。
 
好きな要素を上げるときりがありません。
 
実際、犬も飼っていました。
 
昔、小学校の好きだった先生が飼っていた雑種犬が子供を数匹生み、親に承諾も得ずに家に「飼いたい」と言って連れ帰りました。
 
当然、親からは反対されましたが、泣いて頼み込んでその姿勢に根負けしたのかしぶしぶ承諾、雑種で体も非常に大きかったし、今ほど犬は室内で飼うのがあたりまでは無かった時代もあって、ずっと外で飼っていました。
 
勿論犬小屋はありましたが、場所は北海道、冬はマイナス氷点下に気温が下がるのは当たり前の環境の中、頑張って生きてくれて15年ほどの生涯をまっとうしました。
 
今でも、近所の犬と時々触れ合ったり、たまに仕事帰りにペットショップに立ち寄っては犬たちの見せる姿に癒されて帰ってきたりもしますね。
 
そんな犬好きなわたしですが、ある光景をみて犬の飼い主が一般的に持ち合わせている身勝手な傾向について考えてしまいました。
 
 

ベンチに犬を座らせることに抵抗がない飼い主

 
先日、毎週土曜日通っている歯医者の治療が終わり、天気が抜群に良くてほっと一息したいとおもい、近くのベンチに腰を掛けました。
 
そのベンチは、一般的な長方形の3人がけ等のものではなく、背もたれがない正方形の大きなもので6人ほどが腰かけれるようなものでした。
 
そこには、おそらく近所の方と思われる御老人が一人静かに腰かけていました。
 
わたしは御老人に少し距離をあけて座ってたところ、突然大型犬の散歩をしていたおばちゃんがベンチに座っていたのです。
 
そこまでは良かったのですが。
 
おばちゃんは、おもむろに犬も直接ベンチにあげさせて何やら話しかけたり、身体をさすったりしています。
 
飼い主にそのようにされた犬は「うれしい」とばかりに尻尾を振ったり、大きな体を飛び跳ねさせて飼い主への愛情を表現しています。
 
とにかく、大きな犬だったので、それはそれはそれは迫力と威圧感があって、犬が好きなわたしでもかなり迷惑でした。
 
わたしは、
 
「常識のない飼い主だなぁ」
 
「ウザい」
 
「早く帰ってほしい」
 
と思っていたところ
 
その迷惑なおばちゃんと犬はほどなく帰っていったのです。
 
ヤレヤレ^_^
 
そうしたら、わたしの隣に座っていたおとなしそうな御老人が
 
ベンチは人の座るところ。そんなところに犬を乗せやがって!
 
何考えているんだ!
 
とぼそっとつぶやき、ベンチを後にしたのです。
 
わたしはそれを聞いたとき、ちょっと嬉しかったのです。
 
「あぁ。犬の飼い主の非常識・勝手な論理に怒っているのは自分だけでなないんだなぁ」と妙に親近感を覚えたのですね。
 
というのも
自分は潔癖症とは言わないまでも、結構神経質な性格です。
 
仕事で使うカバンは絶対に電車の床に置きませんし、家の床もかなりきれいな方だと思います。
プラスまして犬好きなのだから、犬がベンチに直接上がったくらいで目くじらを立てるのは、自分だけなのかなと思っていたのです。
 
 
我ながら「ちっちゃい男」かなと。
 
でも、人に普段物言いを決して言わなそうな見るからに柔和なおじぃちゃんが結構激しい口調で文句を言っているのを聞いて安心したんです。
 
そして、やっぱり犬の飼い主は「結構勝手な論理構造の人が多いなぁ。」と思ったのです。
 
 

幼児が電車やベンチに土足で上がっていたら

 
もし、小さな子供が電車の座席や公園のベンチを靴を履いたまま土足で上がったりそうしようとしていたら、大抵の親御さんは、「靴を脱いでしようね。」と注意して靴を脱ぐことを促したり、あらかじめ靴を脱がせてあげますよね。
 
靴を履かせて散歩している一部の珍しい犬を除けば、ほとんどの犬は当たり前ですが、土足です。
 
つまり、靴を履いた幼児と足の汚れ具合は同じ状態なのです。
 
でも、人間である幼児の場合、注意したり靴を脱がせてあげたりして土足で上がることでベンチそのものが汚れたり、周囲の人がいやな思いをしないよう当たり前に注意が向くのに、方や、犬になるとなぜかそれが出来ない。
 
それどころか、土足で何食わぬ顔してはしゃいでいる犬を
「〇〇ちゃん、ヨシヨシ」とか言ってベンチから降ろすどころか、愛情を以てあやしたりしている始末。
 
勿論、犬には責任はありません。
 
だからこそ、かわいく愛おしい我がワンコであっても、ベンチなどの公共物を汚したり、それを利用する人々にいやな思いをさせないよう、飼い主さんは大いにワンコの行動に気を使うべきではないでしょうか。
 
 

犬の飼い主は人類皆犬好きだと思っている?

 
昔、わたしが遭遇して忘れられない光景です。
 
おばちゃんが大型犬と散歩している中、小さい女の子とすれ違いました。
 
犬は女の子に興味を持って近寄っていきます。尻尾を振っていたのできっと仲良くなりたかったのでしょう!
 
 
そうしたら、女の子は恐怖のあまり泣き出し、その場でうずくまってしまったのです!
 
きっと、女の子は犬が非常に苦手で怖かったのでしょう。
 
 
小さな子です。
 
その体験がトラウマになってますます犬のことが嫌いになるかもしれません。
 
そればかりか、犬だけでななく、それ以外の動物も苦手になってしまうかもしれません。
 
この場合も、ベンチの例同様にあくまでも犬に責任はありません。
(むしろ犬は女の子と仲良くなりたがっていたのですから...。)
 
飼い主は、犬が苦手な人がいることをあくまでも前提にして飼い犬を統率しなければなりませんよね。
 
犬がたとえ「愛情をもって」人に近づいて行こうとしたとしても、その気配を感じたのならばリードを引っ張ったり、声をかけたりして人に近づくのをやめさせるべきです。
 
だって、先ほどの女の子のように、その人は「犬のことが嫌い」なのかもしれないのですから...。
 
どうも、犬の飼い主というのは、人間は犬のことが無条件に好きであると思っている方が多いように思うのは私だけでしょうか。
 
その身勝手な「皆が愛するかわいいワンコ」という考え。
 
「そのワンコのすることだから...」
 
「ベンチに土足で上がるくらい、どうってことないでしょ」
 
土足でベンチにあがる犬に対してなんの注意もせず、それどころか、それを不思議とも思わない残念な飼い主に対して
 
御老人の静かな抗議を見聞きして
 
犬好きな自分であるからこそ
「そうはありたくないな。」
 
と思った次第なのでした。

原田知世・石田ゆり子と吉高由里子 老けない美女の共通点とは?

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引用 ブレンディ

わたしは、原田知世さんと石田ゆり子さんが大好きです。
 
理由はといいますと。
 
もともといわゆる和風美人が自分の好みであるプラス
ご両人ともにアラフィフの年齢にも関わらずどんどん若い時より美しくなっていると感じるからです。
 
アップにした画像を解析してみると、若い時に比べて小じわが多いとか目尻のシワが目立つとか言われていますが...。
 
それゃーそうでしょう。
ご両人ともにいわゆるアラフィフ年齢です。
 
中高生時代と同様にシワが全くないなんて逆におかしくないですか。
 
長い年月を生きてれば良かれと思って起こした行動が、自分の意図しない方向に解釈をされ結果、自分が悪者とされてしまうことも多々あります。
 
自分が当事者でもないにもかかわらず、人間関係のドロドロの構図に中に巻き込まれてしまって、思わないところでとばっちりを受けたりしますよね。
 
その度、そこに遭遇した人間は大きなストレスを受けます。
 
当然、そこで無意識に歯を食いしばったり、眉間に皺をよせたりしたりしてしまいますよね。
 
 
”顔にできるシワは、大きく分けて「表情ジワ」と「乾燥ジワ」の2種類があります。
「表情ジワ」とは、主に目尻やおでこ、眉間など、表情を作った時にできるシワです。眉間にシワを寄せる、片方の口角だけを上げるなど、ついしてしまう癖はありませんか?表情ジワは、そうした表情の癖によってできてしまいます。”
 
つまり、人生を歩んできて楽しいことも悲しいこともいろいろ経験し、色々な表情をしてきたからこそのシワなのです。
 
だから、年齢を重ねることである程度シワが発生してしまうことは当たり前のことのなのですね
 
原田知世さんも石田ゆり子さんも驚異的な美肌の持ち主です。
 
たぶん「乾燥シワ」は非常に少ないと思います。
 
でも、ご両人ともに笑うと目尻にシワが出ていますよね。
 
でも、それはそれでとってもチャーミングで、若い女性には無い成熟した大人の女性の雰囲気を醸し出すのに一役買っていますし、決して老けているようには見えないのはわたしだけではないと思います。

 

 

吉高由里子は20年後、原田知世・石田ゆり子2世になるはず

 
若手の演技派女優として、バラエティ番組などで見せる不思議キャラ(ぶっ飛びキャラ?)で人気の吉高由里子さん。
 
テレビCMにも良く出演されていますが、わたしは彼女を見るたび、原田知世・石田ゆり子に似ている。特に「原田知世に似ているなぁ」と思っていました。
 
性格は、一般的には原田知世はおっとり系、吉高由里子は元気・天真爛漫系に分類され違いがあると思います。
 
でもビジュアルを見ていると、両人ともに目鼻のパーツが小ぢんまりしていて彫りが浅く、黒髪の和風美人、そして透き通るような白い素肌を持っているといった多くの共通点があると思います。
 
 

顔面を構成するパーツが小さい人は老けない?

 
石田ゆり子も目も小さめですし、他のパーツも可憐な感じがします。
そして、白い素肌を持っているのも共通。
 
美容外科医の高須克哉先生は、「顔面を構成するパーツが小さい人は老けない」ということを主張されています。
 
特に鼻の形状が劣化しにくく美人寿命が長いとのこと。
 
”「鼻! 要は時間が経てば忘れてしまうような、インパクトのない鼻を持っている人は老けにくいということ。この忘れ鼻を持っている人は劣化しにくく、美人寿命が長いんです。平たい幼児顔とも言えるね」”
 
そうですよね!
 
確かに3人とも鼻が大きかったり、高かったりするわけでもありませんし、いわゆる「かぎ鼻」のような尖っていて印象に残る様な鼻の形状をしていません。
やっぱり、共通しています。
 
だから、吉高由里子さんは20年後、現在の原田知世・石田ゆり子のように「永遠の美女」と評されると思っています。
 
 

地味顔・塩顔で生まれたことを喜ぶべきです!!

 
今、男性では 高橋一生・向井理等に代表される「塩顔イケメン」がブーム(?)になっているようです。
 
「塩顔女子」や「塩顔美人」という言葉があるのかどうかは分かりません。
 
女性では塩顔の傾向がある場合、どうしても一般的に「地味」な感じがして、目鼻立ちがくっきりとした傾向の女子の方が、華やかな感じがしてもてはやされると思います。
 
でも、そんな「地味目な」塩顔で生まれた女性こそ喜ぶべきです。
 
なぜなら、高須先生が言うようにそのような顔の女性は劣化しにくく、美しさを長く保っていることが出来るのですから。
 
そういえば、「昭和顔美人」などとも評されていて、「地味」で「幸の薄い」役どころが多い、演技派女優の黒木華さんも、同様の顔つきをしています。
 
 
吉高由里子さん同様、和風美人ですが、彼女の20年後もまた楽しみですね!
 

今、父に送ることば 異様に食べ物に関して厳しかった父へ。

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わたしの父、もう70歳をとうに過ぎてしまいましたが今も元気です。
 
いわゆる「団塊世代」ちょうど真ん中の人間です。
 
戦後の混乱・食糧難の時期に幼少期を過ごし満足に食べることが出来ない経験があったせいなのか、質素倹約を重んじて兎に角、しつけには厳しい人でした。
 

食べ物を残したり、贅沢することは許されなかった

 
とりわけ食べ物に関しては
 
・子供はお茶なんぞ大人のたしなむものを飲むのは早いと飲ませてもらえず。
 
・食べ終わった茶碗にご飯粒が1粒でも残っていたら激怒。
 
・肉なんて贅沢品、そんなものは自分が稼ぐことが出来るようになってから食べろ!
 
という人でした。
 
肉にかんしては、父自身が嫌いというのも理由ではあったのですが...。
(味だけではなく、獣肉特有の匂いが嫌いらしい)
 
わたしは今も「チビ」で幼少期からずっと「チビ」でした。
 
今でもコンプレックスがありますが、やっぱり「チビ」から脱却したい気持が常にあり、一世を風靡した(?)唯一の背を伸ばす方法が書かれた名著「川畑式身長法」の本に
「背を伸ばすためには良質なたんぱく質を多くとることが大切」と書いてあるのを見つけては母親に
 
「背を伸ばしたいので肉を食わせてほしい」とせがんだところ
 
「お父さんが嫌がるからダメ!」
 
「魚を焼いてあげるから、それで我慢しなさい。同じ肉なんだから...」
 
と軽くあしらわれ、
 
「自分がチビなのはお父さんのせいだ!」と結構思っていたりもしていましたね。
 
わたしはそうゆう環境で育てられたので
食べ物に関しては残したり、捨てたりすることはほぼありませんし、いわゆる「粗食」です。
 
一緒にご飯を食べた同僚や、昔デートした女性が食べ終わった後のお茶碗やどんぶりにご飯が残っていると、かなり興ざめしてしまっていました。
 
「ご飯を残す、残さない」行動が人間性にどのように影響しているかは分かりませんし、実際、ご飯を残すような人でも人の也や仕事に誠実で尊敬すべき方は多く観てきました。
 
なので、ご飯を残した人がいると興ざめしてしまう自分。
おそらく親父の教育によって形成された気質が自分自身の人生においてプラスの作用を及ぼしているのかマイナスなのかは不明です。
 
 

父の教育が与えた影響

 
でも、
父が言っていた
 
大人のたしなみであるお茶を子供が飲むな!
 
 →「大人は大人、こどもはこどもの両者不可侵の世界がある」
  「それを尊重しよう!」
 
肉なんて贅沢品、食べたければ自分が稼ぐようになったら食べろ!
 
 →「我々子供を食べさせてくれている親という存在の有難さ」
  「粗食でも食べ物にありつけることに感謝しよう!」
 
そんな考えをわたしに芽生えさせてくれた父の食に関する教育にはとても感謝していますね。
 
自身、アファーフォーおやじになって、歳をとればとるほど粗食がやっぱり口に合うと感じるようになってきました。
(といっても、若いとき豪華絢爛な食事をしていたわけではありませんが...。)
 
それに粗食は、身体にもいいとも言われていますし、
家計にも優しいですから。
 
そういった意味でも感謝感謝!
 
既知のように、日本のように食べ物に全く持って不自由していない国はそれほど多くなく、アジアやアフリカでは生きるために必要最低限の食事もとることが出来ない発展途上地域が数多くある。
 
にもかかわらず、そんな不平等な世界のなかで「たまたま」わたしはお金持ちではありませんが、食べていくために必要な収入を得ている両親から生まれました。
その結果、不自由することなく食べものを享受できました。
 
そのことに感謝できる気持ちが芽生えたのは間違いなく、親父の教育によるものです。
 
正直小さい時は、
 
「焼いたサンマより、肉食いてぇ。」
 
「背が伸びないのはあんたのせいだ!」
 
「食わせろこのやろー!」
 
と恨んだ時もありました。
 
 
でも、今は思います。
 
 
「おやじ、なんであんなに食に関して厳しかったの?」
 
「肉食いたい時もあったんだけど...」
 
 
「でも、ありがとう」と。